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エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(14)

秋林哲也
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情緒との距離

『音楽と文学』(エーミール・シュタイガー)

モーツァルトにふれたついでに、文学と音楽についてもうすこし……
一気に作品を書き上げる人(この場合は作曲家ですが)と、こつこつと仕事を積み上げてゆく人に関連して、「ドイツ文学の大御所」(訳者による)エーミール・シュタイガーが、その著書『音楽と文学』の中で述べていることがあります。

バッハのフーガについて言っているのですが、バロック音楽のもっとも完璧な形式であるフーガは、定められた尺度のもとで、その規律にいかに正確に従っているかが美的基準になっている。したがって彼がその仕事を進めるには、こつこつと同一基準にそって、いつでもなん日かけても続けて作業ができた――というのです。

これに対してロマン派の即興的な作品、シューベルトやシューマンのアンプロンプチュやファンタジーといった作品を統一するものは情緒である。作曲者がこのような作品を一気に仕上げることができないときには、その仕事を続けるためにふたたび最初の情緒に自分を置かなければならない。それは心情のきわどい冒険である――と述べています。ロマン派の「小品」というのは、このような事情と関連しているのでしょう。

文章を書く、小説を書くということにも、これと同じパターンが見られると思います。ある作品を構想し、綿密な取材・調査をし、資料をそろえた上で、こつこつと計画にそって書き進める作家がいます。「資料が語っている」という謙虚な言い方さえあります。

一方では、奔放な想像力にまかせて一気呵成(かせい)に書き上げる作家もいます。この場合はインスピレーションが働いているうちに、それを追っかけ、徹夜してでも書き続けます。その途次、ときにはタバコやアルコール、麻薬にさえ頼ることにもなり、「無頼派」とか「破滅型」という呼称も生まれます。ロマン派の作曲家、作家とつながっています。

短詩形文学、詩人にはこのタイプが多く見られ、ボードレールやヴェルレーヌ、ランボー等の放埓(ほうらつ)なエピソードはよく知られていますし、唐詩では「李白一斗、詩百編」という言葉もあります。

短詩形文学では、「一気」の勢いや「束の間の幻影」がものをいうのでしょう。が、散文の場合は必ずしもそうではありません。論理がともなうからです。

池澤夏樹さんが書いていますが、近代文学においては作者は最初の批評家でもある、というのです。

書いた人は、まず最初に自分が批評家の視点から書いたものを検証しなければいけない。それが批評性に裏づけられた「近代文学」です。斗酒を飲んで詩を吐き出し、あとは酔いつぶれても、読者がそれを讃えるという幸福な時代は終ったのです。近代の作家は批評家としても相応の仕事をしています。漱石とまで言わなくても、伊藤整・丸谷才一・池澤夏樹・金井美恵子さんらの名前を見てもわかるように。

手紙を書いたら次の日に出しなさい、という言い方がありますが、同じことを言っているのだと思います。書いたときはいいと思っても、1日たって読み返してみるとまずいところが目につきます。書いたときの自分に対して1日たった後の自分は、批評家の視点を獲得しているのです。後から読んで恥ずかしい思いをすることが、しばしばあるではありませんか。特に喧嘩の手紙と恋の手紙には要注意です。それを書いたときの「情緒」から抜けだすには、やはり1晩眠るぐらいの時間が要るようです。

それにしても、いまの「メール」ときたら……

(つづく)
2009年2月23日号