文章をめぐるエッセイ(13)
モーツァルトとブラームス
文章を書くことは人間の生き方と同じで、百人百通りの書き方があることでしょう。が、それでも大別してみると、一気に書き上げるタイプ(書ける、というべきか)と、こつこつと積み上げてゆくタイプがあると思います。
音楽の世界での例としては、モーツァルト型(またはシューベルト型)とベートーヴェン型(またはブラームス型)ということになるでしょうか。

W.A. モーツアルト
「……構想は、宛(あたか)も奔流のように、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。然(しか)し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることは出来ません。」
小林秀雄の『モーツァルト』には、このような言葉が作曲家自身の手紙の一節として引用されています。あとはただそれを書けばよいのだ、と。ニワトリやアヒルの話、人の噂など話しながらでもモーツァルトは作曲していた。同席している人たちは、自分がいま音楽史上に残る傑作の誕生に立ち会っていることを誰一人気がつかないでいる、というわけです。創作する人にとっては夢のような、うらやましい話です。
シューベルトもまた、ウィーンの街のレストランで、曲想が湧くとテーブルの上のナプキンや紙片にそれを書き取ったといいます。あとで友人がそれを弾いてみると、「あ、それいいね、誰の曲?」と聞いたものでした。曲が一瞬のひらめきで完成していて、あと自分の記憶から脱け落ちたものでしょう。

ヨハネス・ブラームス
一方、ブラームスのような人は、着想から10余年にもわたる紆余曲折をへて完成させた曲の例もあります。あの「ドイツ・レクイエム」は11年もかかっていますし、交響曲第1番には7年もかけています。ベートーヴェンの手稿は書き直しが多く見られますが、その達成はすばらしいものです。「荘厳ミサ曲」の完成には5年以上の年月を費やし、彼自身はそれを聞くこともなく世を去りました。
文章を書くことを仕事にしている人たちにも、二つのタイプがあるようです。小説を書く場合は作曲に比べて、より多くの資料が要るし調査・取材もしなければなりませんが、そうした準備をした上で一気に書き進める人と、書き直し書き直し進んでゆく人とがいます。髪をぼさぼさにして書き損じの原稿用紙の紙屑の中で苦労している作家像がありますが、いまのパソコン時代では古い姿になってしまいました。
「天声人語」を担当された辰濃和男さんは、「私は書くのが遅くて……書いては直し、消しゴムばかりを消費している」「一気に書きあげる人をいつもうらやましく思っていました」と書いています。
これは謙遜で、一気型ではないということなのでしょう。
では一気型の作家の原稿は早くもらえるかといえば、必ずしもそうではなく、いつも〆切が過ぎてから一晩に10数枚とか、印刷会社の出版校正室にカンヅメになってやっと間に合わせる、という人が結構多いのです。モーツァルトのように構想が「奔流のように」現れるまでに時間がかかるのかもしれません。「それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らない」というのであれば、〆切との関係はむつかしくなります。むしろコツコツ型の作家の方に編集者としては安心して原稿依頼ができます。
しかし、できあがった文章に、それが必ずしも反映していないということがおもしろいところです。


























