文章をめぐるエッセイ(7)
「文章を打ち出す」
パソコンで文章を「打ち出す」のは、いまではあたりまえのことになってしまい、若い人たちにとっては、それ以外のことは考えられないかもしれません。
かつては、よく、文が頭の中に浮かんだらそれを口の中で唱えてみて、それから書け、などと言われました。このやり方だと、読む人にとっても読みやすい、口調のよい文章が綴られることになるでしょう。句読点の少ない文章とか、主語と述語が離れすぎている文章なども口調の点からチェックされます。目と口と耳と手が連携動作をしている、というわけです。
「打ち出す」文章の場合は、この関係がどこかで切れています。ひらめきが手の指に直接伝わるのでしょうか。能率という点ではわるいことではないと思います。報道記事を送るとか文書作成には役立つでしょう。10分間で本が1冊読める、という新聞広告を見かけますが、その種の能率と近いようです。
早過ぎるのはよくない、というわけではありませんが、こうした傾向に対して、ある指摘がありました。五木寛之さんが、担当している文学賞の選考に際して述べています。
「小説世界においては、文章を磨く、という意志は一貫して大事なことだろう。文章に対しての関心が薄れてきたことと、最近の直木賞の候補作品のヴォリュームとは、どこかでつながっているというのは、的はずれな意見だろうか」(『オール読物』‘08年3月号)。
ためしに、その選考の対象となっている作品の「ヴォリューム」を勘定してみたら、ある作品は1ページ20行づめで570ページ、もう1つの作品の方は390ページと380ページの上下2巻でした。書き手の方には、その作品の構想の大きさとか、綿密な描写を重ねるといった当然の理由があるのでしょうが、限られた時間内に厚い本を何冊も読まなければならない審査員もたいへんだろうと思いました。
人間の内部を描くような「純文学」(この言葉はいまはあまり使われないのですが)系の作品はそれほど長くないのですが、ストーリー展開の複雑な、波瀾の大きさで読者をひっぱってゆくエンターティナー系に長編が多いのは、その特長からしてやむをえないことです。書店の棚に並ぶそれぞれのコーナーの本の背を比べてみると、よくわかります。
それにしても長すぎないか――ということがあるとすれば、それは短時間に速く文章を「打ち出す」ということとつながっているのだろうと思います。またその「速く」に関して言えば、売れない作家はその分、手数多く書かなければいけないし、売れる作家はいくつもの〆切に追われて速く速く書かなければいけない。文章を口ずさんでなんかいないで、昔風の言い方をすれば「機関銃のように」打ち出さなければ……。
だたし、と一言お断りをしておきますが。翻訳ということになりますと、横組の原文と対比して書いては直し、直してはまた書き、他のテキストと比較しては修正し、辞書にあたっては訂正し、という作業は、翻訳の場合、エッセイを書くとか小説を書くことに比べて、ひじょうに多いはずです。こんなときはパソコンはとても便利な文房具だろう――と私は、消しゴムの屑を見ながら思いました。


























