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エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(6)

秋林哲也
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「文章を書く姿勢」


作家の手書き原稿は、個性ある筆跡で書き手の人格をも表現しているようなところがあった。(中山義秀「露命」より)

活版印刷では、1本1本の活字を拾い集めていわゆる「植字」をし、文章を組み上げていきます。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、主人公のジョバンニが学校の帰りに印刷所へ立寄ってアルバイトの活字拾いをする場面が描かれています。「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました」というように、面倒な骨の折れる仕事だったのです。

が、現在では活版印刷の時代は終ってパソコンの時代になりました。キーボードをたたくだけで文字が出てきて、漢字にも変換されます。どんな字画の多い漢字でも瞬時に打ち出されます。伝達・報道という点においては圧倒的な速さになっています。「文章を書く」ということは死語になり、文章を打ち出す、ということになるのでしょうか。

それでも、小説を書く、エッセイを書くなどという仕事の場合は、必ずしもその速さは必要でない、という専門家もいます。パソコンで印刷する速さは、頭の動きと落差がある、というのです。

考え考え白い原稿用紙の上にエンピツとかペンで書いてゆく、という行為が、自分の思考のリズムと合っている、ということです。ワープロが普及しはじめた頃、作家たちがいっせいにワープロに切りかえ、その便利さにあやかったものでした。編集者の方も、作家の個性のある悪筆に苦労しなくてもすみ、歓迎しました。

が、しばらくすると、やっぱり手書きの方がいい、自分の性に合うといって、元に戻った話をよく聞きました。はじめに原稿用紙に書き、作品ができあがるとワープロやパソコンで印字し、出版社に渡す、という人をなん人か知っています。私などはそのへんの気持ちや事情は理解できますが、若い人たち、若い作家には、なぜそんな手間のかかることをするのかわからない、という人もいることでしょう。

文章を書く――という行為には、個人差や個性の違いがあるだろうと思います。単に文章を書くということだけでなく、ものを考えるということにも関係しているでしょう。歩きながら考えるという人もいるし、モーツァルトを聴きながら考える、対話しながら考える、などさまざまのパターンがあるように。

机の上の白い原稿用紙に向って、エンピツをとるとある種の緊張が生まれ、文章が浮かんでくる、という作家は多い、あるいは多かったと思います。が、私のカルチュアの教室の若い人たちの中には、パソコンに向うと書こうという意欲が湧いてくるという人もいました。

砂浜に水着姿で坐ってタイプライターを打っているあるアメリカの作家の写真を見たことがありますが、これに対応するイメージとしては、着物姿で座敷に坐り毛筆で書いている日本の作家の姿でしょう。文章を書く、ということへの姿勢の違いの一つといえるのではないでしょうか。

「文は人なり」とか「言霊(ことだま)のさきおう国」などという言葉がありますが、この根底にはABC 26文字による文章表現と、1字1字意味をもつ多くの漢字を使う文章表現、という違いがあるように私には感じられます。

(つづく)