文章をめぐるエッセイ(4)
「こだわりの作家」
作家や、いわゆる「もの書き」の人たちとおつきあいをしていると、いろいろな経験をします。この人たちは文章を書くことが仕事であり、また生きがいでもあるのでしょう。
いまは作家から原稿を受けとるといっても、パソコンのメールだったりCDだったり、ファックスで送られてきたりで、手書きの原稿を受けとることはほとんどなくなってしまいました。紛失して社をあげて大騒ぎをする心配はなくなりましたが、私が現役で編集の仕事をしているころは、作家の家を訪ねて、万年筆などで書かれた原稿を受けとるときは、胸がふくらんだものでした。

訂正の多い、ある作家の原稿
きれいに清書された原稿よりも、書き損いや書き込み、訂正などがたくさん入った原稿の方が、書き手の苦労の跡がしのばれて興味ぶかく読めます。〆切の約束を守るために、きっと一晩中苦心したことでしょう。私に対してにこやかに応対していたある作家は、なにか持ってくるように頼んだ奥さんが間違って別のものを持ってきたので、にわかに怖い顔になって「これじゃないよっ!」と怒鳴りつけたことがありました。きっと昨夜からの寝不足のせいだったのでしょう、作家の奥さんも大変だ、と思ったことでした。
編集者というのは、自分ではなにごともできず、原稿を書いてもらう、印刷してもらう、校正してもらう、製本してもらう、売ってもらう――という「ものもらい」ですが、書き上がった原稿を最初に読む特権だけはもっています。
名の知られた作家が「どうですか」と若い編集者の私に反応を尋ねることもあって、恐縮してしまいます。また逆に、注文どおりの原稿を見事に書き上げ「どうです!」といった風情で胸をそらして椅子に坐り、私が感嘆の声をあげるのを自信たっぷりに待っている、ということもあります。
頂戴した原稿を印刷に回し、校正が出てきて著者に送ると、いたるところに赤字の訂正や書き込みがあって、読むのに苦労することもあります。文章が変わったり字数が増えたり、行数が増えてページがはみだしたり……苦労のすえ、また再校を送ると、またまた赤字がたくさん入ってきて、という作家もなかにはおります。最初にいいかげんに書いたのではなく、なんどもなんども自分で読み返して、よくしよう、よりよくしようと文章を書き直しているのでしょう。その人の性格や仕事の進め方のようなものがあらわれていると思います。
出来上った作品でも、雑誌に掲載されたものを単行本にするとき、赤を入れて直す作家がいます。それをまた全集に収録するとか、文庫版にするときにも同じように赤を入れ、という具合で、「これはビョーキだね!」と編集者は陰口を言ったりするのですが、それは作品に対する作家の真摯さのあらわれでもあるのでしょう。そこの違いを研究する専門家も出現するわけです。
一方では、原稿を渡すとき、「どうでも直してください。校正もおまかせしますよ」という人もいます。若い時分の私は、だったら適当に直してもいいのだな、と思ったのですが、いまになって考えると、その人(評論家でしたが)は、すこしぐらい文章をいじられても、自分の書いたものの本質部分は変えられるはずがない、という自信があったのか、ということにも気づきました。その先生には、自分の文章、自分の書いたものへの信頼、といったものがあったのだと思います。


























