文章をめぐるエッセイ(3)
「文章の誕生」
名作文学・世界名作というと、つい私たちは小説のことを思ってしまいますが、小説はいちばん新しい形式の文学といわれます。もともと文学の始まりは詩であって、これは韻をふんで朗唱され伝えられるものでした。
ホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」がそうですし、日本の「万葉集」も七五調の詩です。中世騎士道物語も吟遊詩人によって語られたものだし、「平家物語」の琵琶法師による朗唱も、前回お話したとおりです。

装飾写本『ダロウの書』、マルコ福音書の冒頭頁
文字ができる前から文学はあったのですから、当然それは目で読むものではなく、耳から聴くものでした。また、文字ができてからでもそれを読み書きできる人は、ごく少数の特別の人だけでした。極彩色のミニアチュールとともに羊皮紙に描かれた聖書の美しい文字を思ってみてください。その頃の冊子は貴重なもので、それを手にすることのできる人は選ばれた人たちでした。
このような重装備の冊子(codex)の時代には、それはまだ文学という領域にまで行きわたりません。15世紀のグーテンベルクによる活版印刷術の発明によって、紙に印刷ができるようになり、数百部数千部というBOOKSが誕生します。
初期には聖書・宗教書ばかりだったものが、実用書や文学書へと広がっていきます。それは市民社会の成立とも連動しています。1個人が、印刷された1冊の本と向き合うことが可能になり、1読者対1人の書き手という関係から個性をもった文章というものも誕生します。「個性をもった文章」ということは、それを書く1人の書き手の語り口に他なりません。それまでの神や英雄が主人公だった物語に、ふつうの市民が登場するようになり、ふつうの市民の言葉は文章・文体にも影響せざるをえません。
個人が独自の思想やアイデアをもつこと、それを自分の文章として表現すること、それを他人に自由に読んでもらうこと――これが「近代」というものでしょう。長い時間がかかったのです。いま私たちが何気なく読んでいる小説などのある1行は、それが成立するまで、ずいぶん長い歴史があったわけです。飾られ、崇られ、上から書かれた文章からふつうの文章へ――それは物語や小説そのものの成立、変化とも関係しています。近代文学はこのような文章で書かれることで誕生しました。リアリズム、というものは個人の視点を支える自由性がないと成り立ちません。
社会がわるくなってゆくときには、個の視点がまず制約され、それは文章や文体へのチェックにもなってゆくことでしょう。
例えば、全体主義へ傾斜してゆく社会では、けっして個の視点は大事にされず、「一億一心」だの「みんなで渡ればこわくない」的な発想になっていきます。独自の視点、個性的な文章、それにもとづく文学作品への村八分が用意されます。そうした時代を経て後の世に残るのは、それを批判し、抵抗した作品であることは、文学史に明らかです。




























