文章をめぐるエッセイ(2)
「名文のはじまり」
「名文」という言葉は日本語として定着していますが、他の言語ではどのようになっているのでしょうか。ためしに和英辞典(New Collegiate 研究社)をひいてみますと、an excellent composition とかa fine piece of prose, a beautiful passage などとあって、説明的です。「名人」のan expert や a masterといった独立した言葉とはちがうようです。
たぶんこれは日本語の「名」という語の使い方に理由があるのだろうと思います。「名文」という語には「文章道」につながる意味合いがあるのでしょう。
名文へのある種の信仰は、文学に対する姿勢とも関係しています。すぐれた文芸作品はすぐれた文章によって綴られていなければならない。たしかに名作が名文によっていることは幸いなことにちがいないのですが、それへの許容度が日本語・日本文学の場合は、他の言語に比べてせまいのではないかという気がします。
ついさきほど、第138回の芥川賞の選考があり、「乳と卵」(川上未映子)という作品が受賞に決まったのですが、有力候補の一つだった中国人の楊逸(ヤンイー)さんの『ワンちゃん』への評として、「この日本語は芥川賞の文学レベルに届いているか? 激烈な議論」の末に「授賞を見送」った――という新聞報道がありました(朝日新聞)。

琵琶法師:「七十一番 職人尽歌合」
二十五番。琵琶法師に添えられた歌は、
「あまのたくもの 夕けぶり 尾上の しかの暁のこゑ」
小学館『日本大百科全書』より
日本文学の古典名作は、それぞれに名文で始まっていて、学校でよく暗唱させられたものです。それはとてもいいことだと思います。学校の勉強が大嫌いだった私でさえ、学校を出てからなん10年もたった今でも、
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……
などといった文章が、おのずと口にのぼってきます。この場合はれっきとした作者がいる例ですが、作者がいてもいなくても、人の口にのぼり語られることで「名文」になってゆきます。
私の好きな古典の一つは「平家物語」ですが、盲目の琵琶法師が辻に坐して、その周囲には老若男女が群がって「祇園精舎の鐘の声……」という七五調に耳を傾けている――といった図を思い出してください。
それにつけても思うのですが、あの平曲のテンポの緩やかさはどうでしょう。現代の名人といわれる人の語りをなん度か聴いたことがありますが、想像以上にゆっくりとしたものでした。那須与一が扇の的を狙って矢をつがえ
よっぴいて ひょうと放つ
までの間合いには、かなりの忍耐が要ります。その時代には時間がゆっくりと流れていたということなのでしょう。「人間五十年」の時代の人たちは、それに相応しい時間を生きていたのです。文字を読める人はごく少なく、そのような現場で物語を語る言葉は人々の耳に快くひびき、理解されるように、ゆるやかな時間を通して磨かれていったことでしょう。
それが古典名作の名文のもともとの姿なのだと思います。


























