The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(1)

秋林哲也
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「文章道はあるか」

今回から、稿を改めて「文章について・文章をめぐって」書き続けることになりました。

いわゆる文章講座・文章教室はカルチュアとか通信添削などの形で多くの場が用意されており、そうしたところでせっせと文章を磨いている人も多いようです。

文章を書き綴ることにも、日本文化の一つ型としての「道」があるようで、茶道・華道・剣道のように「文章道」に精進している人たちもいます。かつて「小説の神様・文章の神様」として志賀直哉がいて、若い作家は文章道に精進する行いの一つとして「暗夜行路」を全文書写したものだ、という伝説もありました。が、あながち伝説ばかりでもないようです。

私の場合でいいますと、読売・日本テレビ文化センターというところで、「小説を書く」という講座を10年以上続けておりますが、そのような場で多くの「書く人たち」に出会います。その人たちに共通していることは、小説を書くためには文章を磨かなければいけない。よい小説を書くにはよい文章を書かなければならない、という信念をもっていることです。自分はなかなかよいテーマをもった小説を書いているのだが、文章がうまくないので作品としてはいま一つだ、がんばって文章をよくしてしかるべき評価を得るようにしなければ――というわけです。いささか偶像崇拝の感がしないでもないですね。

たぶん、こうした感覚はあるところに共通したものだろうと思います。日本近代文学の主流であった「私小説」は、作者の身のまわりの些細なこと、貧しい四畳半の内部のこと、自分の病気のこと、家庭内のいざこざ、去っていった女のこと、などを凝視して、包みかくさず精魂をこめて書き綴りました。そんなことを人に読んでもらうためには、磨かれた文章でなければもたないでしょう。

このような事情から、小説を書くためにはすぐれた文章でなければならないのだ、ということになったのだろうと思います。文章道に励むことが閉塞的な生活からの救いのようになったのでしょうか。たしかに悪文でもってそんな生活をあけすけに描かれたら、読む人はいなくなってしまうでしょう。

外国語に強く、外国文学をたくさん読んでいる「出版・翻訳」の関係の方たちは、きっと日本語や日本語の文章を相対的に読み、受けとめる習慣・姿勢をしぜんと身につけていることだろうと思います。そして日本文学の中の私小説が長い時間をかけて培ってきたものをも、相対的に受けとめる視点をもっていることだろうと思います。いや、だからこそ外国文学を選び、学んだのだ、ということでしょう。

「理屈は後から貨車で来る」というおもしろい言葉がありますが、それにならって言えば

「ともかく自分にしか書けないもの書いてください。文章は後からどうでもなりますよ」

――新しい講座の最初の日に、私はそんな言い方をよくします。

(つづく)