文章をめぐるエッセイ(12)
翻訳家との対話

作家(中野孝次氏)と編集者(秋林)。1994年、中野邸にて。
中野さんはこの頭上の長い軒廂と丸太の柱がお気に入りだった。
この写真は本文とは関係ありません。
作家の書いた文章を前にして、編集者が作家に注文をつけ、文章に手を加えて削ってもらったり、改行をふやしてもらったり、ということは編集のふつうの仕事です。
これが翻訳文の場合だと、そこに原文との関係という、もう一つの要素が入ってきます。「改行」のことをもうすこし続けてみます。
「先生、これはちょっと読みづらいですね。本にしたとき、これだと3ページぐらい改行なしで続いてしまいます。かなり息苦しいですね。私の方でなん箇所か改行をふやしてもよろしいですか?」
「いや、それは困る。だって原文がそのとおりなのだから、原著者にことわりなしにかってに文章をいじって改行したりするのはよくないと思うよ。私は原文にしたがって正確に訳しているつもりです」
「でもこれは○○○語ではなく日本語なんですから、日本語の語調として読みやすい形にするのは許されるのではありませんか」
「私はそうは考えないね。もともとこの作者はとても論理的な思考・表現をする人で、文章もまた論理を追ってたたみこむように進められている。この呼吸が作者の持味なんですよ。それを伝えたいと思うから、こんな文体になっているんで、あまり崩してほしくないですね」
「でも先生、これは日本語に訳されてしまったからには日本語作品となるわけです。だったらやはり日本語文章としてのルールといいますか、行儀・作法に沿ったものにしませんと違和感のあるものになりませんか」
「ある国の文化――文学もその一つになるわけだけれど、文学はその国の言語によって組立てられ描かれているわけです。それを日本語に訳すとき、全く自由に日本語世界に置きかえたり埋め込んだりすると、せっかくの違いがなくなってしまう。じつはその違いや違和感というものが異国の文化の質感なんで、そこに意味や価値があるのですよ」
「違い、に意味があるのだと……」
「そう、そこが大事なんですよ。違いの意味を理解してほしいから、私たちは翻訳という仕事をしている。違いを理解することで異国の文化・文学から得るものがあるだろうし、新しいものを発見し、とりこんでゆたかにもなる、というふうに考えませんかね」
「先生にそこまでグランドを広げられると、問題が大きくなってしまいます。私はいま、この文章をもうすこし読者のために読みやすく改行したいとお願いしているのです」
「読みやすい、ということにそれほどこだわらなくてもいいんじゃないかな。大江健三郎さんの文章だって、はじめの頃はずいぶん悪口を言われたものですよ、これは翻訳文だといって。でも今では、若い人たちであれを真似た文章を書く人もいる。日本語文章の幅を広げることにもなったと私は思うね」
「たしかに日本語文章も変化していますね」
「そうでしょう。変化を必ずしも乱れ、ととらない方がいいのです。流麗とか簡潔というのが文章の規範ではなく、多様であることが主題の多様と相まって全体をゆたかなものにしているんだと思いますよ」
「なんだか、短距離走がマラソンにひきこまれてしまったような感じです。とりあえず、原稿全体を読んでから、またご相談にまいります。
「どうぞ。私の方はいつでもいいですよ」





















