The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

Did you know that?

田中寿美
[ profile ]

30.「マニフェスト」が米語で使われない訳は?

アメリカに住み始めて20年以上が経った。長く住んでいても英語が上手くなるという保障がないことは、なが~く住んだ本人がよく分かっている。だんだんと「アメリカに長く住んでいる」と言い辛くなってきている。

さて、私は毎年日本に帰国する。最近は、帰るたびに理解できない口語が多くなり、全くもって「KY」の人になってしまうこともある。短縮語、造語、外来語、外国語、何と区別するべきか分からないような言葉が溢れている。「英語なら少しわかるぞ」と思っても、英語のようだが、日本語の中で使われる上に発音やアクセントが違い、理解できない言葉も多い。

昨年日本に帰って一番驚いたのは、「マニフェスト」という政治用語だった。この言葉は、公明党が2003年の衆議院選挙で「マニフェスト」作成を宣言し、また統一地方選挙でも、「ローカル・マニフェスト(地方自治体におけるマニフェスト)」として提唱されたことによって、日本人にも知られるようになったらしい。2008年、民主党は、独自の「マニフェスト」方式を採用したとのことだ。しかし、私が日本の政治に疎かったのだろう、昨夏の総選挙前まで、この言葉を全く知らなかった。民主党が唱える「マニフェスト」は、俄然私の耳を苛立たせ始めた。

「マニフェスト」って何?

英語のように聞こえるが聞いたことがない。早速電子辞書の英和で「manifest」を引く。形容詞や動詞もあるが、名詞で『積荷目録―送り状;乗客名簿』とある。
「これって何か違うわよね。民主党の積荷目録?乗客名簿?」

疑問は解けない。辞書をよく見ると「manifesto」ともある。名詞で『(通例単数形で)政策、宣言(書)、声明(書)』
「これだ!民主党の政策!」

イタリア語らしい。だから語尾が「manifesto」で終わり、日本語でも「マニフェス」と「ト」が強く発音されるのだろうか。英英辞書で調べてみると、英語でも「A written statement in which a group of people, especially a political party, explain their beliefs and say what they will do if they win an election; election manifesto, the party manifesto」とある。
「そうか。選挙公約、党政策なのだ」とやっと納得する。

アメリカに戻って暫くして、民主党大勝利が報道された。鳩山政権誕生とともに、「マニフェスト」という言葉が存在感を増した。党が掲げた政権公約「民主党マニフェスト」は日本語になったらしく、NHKのニュースなどでも使われるようになってきた(衛星放送でアメリカでも見ることができる)。

「はて?私は20年以上もアメリカに住みながら、どうして「manifesto」という英語を聞いたことがないのだろう。イタリア語が語源だから当然か……。私がアメリカに住むようになって以来、父親のジョージ・ブッシュ大統領(George H.W. Bush 1989-1993)政権から6度の大統領選挙、その他知事選、市長選など幾度もの選挙を見てきた。しかし、英語の政治用語でもありながら、どの選挙でも「manifesto」という言葉は聞かなかった。

夫に聞く。
「ねぇ、『マニフェスト』っていう言葉知っている?」
「manifest? 飛行機の乗客名簿や貨物船の積荷目録のような意味で使われるような意味かな?」
「そうじゃなくて、政治の政策というような意味よ。今、日本の政治家たちがよく使っているの」
「ああ、日本の民主党が主張している「マニフェスト」という意味?僕は、なぜ民主党が「マニフェスト」という言葉をわざわざ使っているのか理解できないけれど、『Communist Manifesto』なら知っているよ」
「えっ?コミュニストって、共産党の?」
「そうだよ。アメリカでは、一般的に『manifesto』という言葉は、単独で使われることはなく、カール・マルクスの『The Communist Manifesto』として知られていると思うけれど……」
「そうなの……」

夫の言葉だけではなんとなく覚束なかった私は、親戚、友人、知人、聞けると思うアメリカ人には誰でも「manifesto」という言葉を知っているかどうか訊ねてみた。「manifest ?」と、必ず疑問が返ってくる。「『manifest』っていろんな意味があるけれど、何を知りたいの?」と聞かれたこともあった。多くの人は「Manifesto? I don’t know…」という。「じゃ、『The Communist Manifesto』は?」と聞くと、殆どの人が納得したように「知っている」と頷いた。

最後は、学問途上段階、大学生の息子に「まさか知ってはいないだろう」と高をくくって聞いた。
「『The Communist Manifesto』って知っている?」
息子曰く、
「知ってるよ」
えっ?息子だって知っている?
「お母さん、アメリカの高校で歴史を習った人は、必ず『マルクス主義』を勉強するよ。その時出てくる言葉が『The Communist Manifesto』なんだよ。そんなことも知らないの?」
「そんなこともあんなことも知らない……。20年住んでいても知らない……」

「The Communist Manifesto」とは、「共産党宣言」だったのか……。

「共産党、カール・マルクス、資本論、エンゲルス、ソ連、マルクス・レーニン主義、社会主義、冷戦、ソ連崩壊……」私が共産主義に関連して知っていることは、多くも深くもない。

1848年、ドイツ人カール・マルクス(Karl Marx)とフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、世界で最も影響があった政治書の一つとされる「Manifest der Kommunistischen Partei (The Communist Manifesto)―共産党宣言」を著した。レーニンがマルクス理論を支持したロシアでは、「共産党宣言」を基盤としたマルクス・レーニン主義の「ソビエト社会主義共和国連邦」が生まれた。続くスターリンの時代に、共産、社会主義時代が確立していく。一方、アメリカが近代資本主義、民主主義国家を建設していく中、第二次世界大戦後、ソ連との間には、冷戦時代が1991年まで40年以上も続くことになった。

世界を東側と西側に分けたこの冷戦、米ソ直接の戦争はなかったものの朝鮮戦争、ベトナム戦争などで多くの人命が失われた。

日本人にとってさえ、ソビエト社会主義共和国連邦という国は、決して親しみの持てる国ではなかったはずだ。ましてやアメリカにとってかの国は、不穏な信用できない敵国以外の何者でもなかった。

Manifesto」という言葉が、アメリカで使われない理由が分ったような気がした。

さて、「民主党マニフェスト」は、イギリスにおける19世紀以来の政治慣行を参考にしたものらしい。イギリスの政党政策は、「Party Manifesto」とか 「The Manifesto of a Party」 と今でも呼ばれることからも、イギリスでの「マニフェスト」という言葉に対する意識は、アメリカと違ったものがあるのかもしれない。

19世紀、ヨーロッパ社会は、資本主義による資本家階級(ブルジョアジー)と労働者階級(プロレタリアート)との対立が増していた階級闘争時代である。労働者階級の人々にとって「The Communist Manifesto」は、資本主義階級社会を批判する最適の書であり、政治権力を資本家階級から奪取し、労働を共同化することによって、平等と民主的な国家ができると言う理想的な思想主義だったに違いない。しかし、上流資本家階級にとって、「The Communist Manifesto」は、脅威の書だったことだろう。

他方、当時のアメリカでは、1861年に勃発する南北戦争を前に、南部と北部で、政治、経済、社会思想の相違による緊張感が増していた。イギリスやヨーロッパとの貿易に目を向けることはあっても、労働者としての移民や黒人奴隷問題を抱える国で、「The Communist Manifesto」理論を熟慮する者など殆どいなかったのではないだろうか。

ヨーロッパの国々が混沌とした時代、「Manifest der Kommunistischen Partei」は、初めイギリス・ロンドンで、ドイツ語で印刷・発行され、二年後に英語版「The Communist Manifesto」が出た。「コミュニスト・マニフェスト」という言葉を考えたとき、イギリスやヨーロッパの人々にとっては、当時民衆に支持された「コミュニスト(共産主義)」という言葉に大きな意義があるのであって、「マニフェスト」自体には「政策」とか「宣言」という単独の意味しかなかったかもしれない。それ故にイギリスでは、その後も「マニフェスト」という言葉が、政治用語として独立して使われてきたのではないだろうか。

夫は言う。
「オバマ政権は、2008年秋、共和党を倒して劇的な勝利をおさめた。翌年、日本でも民主党が自民党から政権を奪った。アメリカと日本の新政権には政治的共有点があるかと思われた。しかし報道では当初、アメリカ政府が民主党政権誕生に歓迎的な態度は示さなかったように感じた。これは僕の個人的憶測だが、日本という国や国民をよく知らないアメリカのインテリ政治家の要人たちは、民主党が掲げてきた「マニフェスト」という言葉に、ソ連時代の「The Communist Manifesto」を重ね合わせ、日本が民主党新政権に変わることによって「共産主義」とまでは行かなくとも「アメリカ離れ」を進めていくのではないかと恐れたのではないだろうか……」

私が「マニフェスト」という言葉を初めて聞いたとき、一つの外来語(外国語)、特に政治用語にこれ程深い意味があるとは考えてもみなかった。「マニフェスト」という言葉ばかりではないだろう。例えば、私たちが何気なく使っている「Party-パーティ」という言葉は、ロシアでは全く違った意味を持っていたらしい。夫は、1970~80年代に幾度かソ連を訪れた。当時ソ連では、「Party(政党)」という言葉だけで、[The Communist Party」つまり「ソビエト社会主義共和国連邦政府」を意味したとのことだ。「Party」という一言に「革命や戦争を経た歴史、思想主義、政治権力、人民感情」まで含む人々の複雑な思いがあったのだと言う。

民主党は、与党として、重責である国政を担うことを目指しながら、なぜイギリスの政治用語「マニフェスト」を使って党の政治政策を国民に訴えようとしたのだろう。いろいろな意図はあるだろう。しかし、その言葉がイギリス以外の国々にどのような意味があるかを考慮したのだろうか。広辞苑には、「マニフェスト」とは、「①宣言。宣言書 ②特にマルクス・エンゲルスの共産党宣言を指す」と載っている。

アメリカでは、党や選挙公約のことを「Party Platform」や「Political Platform」と言う。鳩山政権が「民主党政策」と日本語で表明すれば、外国に情報が渡るとき、通訳や翻訳の段階で、その国に適した正確な言葉で伝えられるのではないだろうか。アメリカでは「Party Platform」、イギリスでは、「Party Manifesto」と訳される。

いろいろな情報が一瞬にして世界中を駆け巡る今、日本の国政を預かる政党が、首相が、政治家たちが、国をも動かす大切な『政策』を「マニフェスト」と言い、国民を愚弄する。政府は、国民は、将来を担う子供たちの日本語を憂い、国語教育の重要さを訴える。

子供たちの心に何が伝わるのだろうか……。

美しい日本語はどこへ~。


*参照「Did you know that?」14回「パパとママは日本語?」

**************************************** *******************

Manifest
der
Kommunistischen Partei

(The Communist Manifesto)

 

2010年1月25日号
(第4巻141号)