入門翻訳勝ち抜き道場

Did you know that?

田中寿美
[ profile ]

8.乳癌治癒募金運動に参加して

9月25日のこと、ポートランドの田中さんからメールがきて、この週末は忙しかった、と。
——「Race for the Cure」は、私が味わった感動をぜひ伝えたいという気持ちです。ポートランドのダウンタウンの道路が、4万の人の川となって動いているのは感動的な光景でした。車は全て締め出されました。寄付目標額は、この地方だけで$3 million - 約3億6000万円です。全体では125都市で関係しているので、相当な金額になると思います。これらのお金が乳癌の検診、教育、研究費などに使われ、一人でも多くの命を救おうという運動です。参加して本当に良かったと思いました——

これはすごい、早速原稿を書いてよ、世界中嫌な話ばかりが伝えられている今だ、書いてよ。写真はデジカメをなくしてしまって、でもフィルムカメラでも撮ったから、大丈夫と思いますよ。それでいいさ、待ってます。こうしたやり取りがあって、本コラム、急遽心温まるアメリカを。運動に参加した興奮がじかに伝わってくるレポート、いつもより文字数が多いが、さぁ、いっしょに列に加わって、歩き出そうではありませんか。藤岡記.

その日は九月だというのに朝から肌寒かった。集まった四万余りの人々は、この大会に参加するためにもらったロゴのついた白いTシャツを着て,出発の時間を待っていた。この人込みの中で友人に会うのは難しいかと思われたが、携帯で連絡しながらお互いを探しあった。乳癌罹患者である友人を中心に集まったのは、男女、子供合わせて十二名。私たちは、五キロメートルを一緒に歩く予定であった。

マリンバの奏者たち
街のあちこちには、楽器を演奏するグループやチアガールのような高校生の応援団も数多くあった。
このグループは、マリンバの奏者たちであった。

ここは、アメリカ、オレゴン州ポートランド市、街の中心地ダウンタウンの川沿いの公園である。レース出発時間の九時は過ぎていたが、この大きな集団が歩き始めたかどうか、私たちのいる場所からは伺い知れなかった。友人を介して初めて会った私たちは、お互いに自己紹介をし、雑談に花を咲かせていた。しばらくすると、まるで一箇所から少しずつ水が流れるように人が歩き始めた。のろのろと動く人の流れに沿って私たちがスターとラインを過ぎたのは、四十分も経った頃だろうか。

「スーザン・コーメン・救済レース(Susan G. Komen Race For the Cure)」と名づけたこのイベントは、1982年、ナンシー・ブリンカー(Nancy G. Brinker)というアメリカ人女性が、乳癌で亡くなった姉スーザン・コーメンを思い、「あなたの死を決して無駄にはしない」と誓って始めた乳癌予防、治癒、研究、教育のための募金運動である。二十五年間に、この運動は125都市と団体が関わる百以上の募金レースに発展していった。個人、団体、企業を通じ集められた寄付金の内、$1 billion(約千二百億円)は、約二百ヶ国、一万八千の団体の乳癌の研究や教育に投資されてきた。世界一の乳癌個人基金である。

スーザンとナンシーは仲の良い姉妹であった。大学を卒業したスーザンは、生まれ育ったイリノイ州の小さな町ピオリア(Peoria)に戻り、大学時代の恋人と結婚し幸せに暮らしていた。妹ナンシーは、大学卒業後、テキサス州ダラスに住んでいた。姉妹は、離れて暮らしているにもかかわらず毎日のように電話で話していた。ある日、姉からの一本の電話で運命が変わった。スーザンの胸にしこりが見つかり、細胞検査を受けなければならないという連絡だった。この田舎町Peoriaには、医者が一人しかいなかった。彼は、家族の「ファミリードクター」であり、この町のほとんどの病気は彼によって診断され治療されてきた。家族は、スーザンの胸のしこりも彼の診断に任せた。それは、子供のはしかの治療のように乳癌治療にも急ぐことなく対処された。

その後、町医者は自分の手に負えないと判断し、手術医に連絡をとってくれた。診断の結果、乳房切除手術が必要であると告知された。しかし、スーザンは、情報が不十分な中不安になり、乳房切除手術を拒否してしまう。結局、全摘出ではなく、癌細胞摘出手術を受け、その後細胞をとった部分にインプラントを施し、乳房の形を元通りにする手術をすることになった。スーザンには、その時どのような手術が最適であったのか相談する他の医者はいなかった。「セカンド、あるいはサードオピニオン」を聞くことができていれば運命は変わったかもしれない。

手術は成功したかに思われた。手術医は乳癌執刀経験が少なかったのかもしれない。術後、医者は「もう癌は完全に直りました。(She is cured.)」と言った。ナンシーは、その言葉を聞いたとき、医者に不信感を抱いた。しかし、自分の知識として、再発の恐れがあるのではないかと思っていても、医者を信じるより他はなかった。「完治した」と断言する医者の言葉は、患者や家族にどれほど安堵感を与えてしまうことだろう。家族の誰を責められようか。

スーザンと家族は、五ヶ月の間平穏な生活を送った。もう癌は取り除いてもらった。スーザンは生きる希望に燃えていた。しかし、完治したはずの癌は、本人の知らない間に肺と脇に転移していた。家族はこの日から地獄の日々を過ごすことになる。体中に急激に広がっていく癌細胞とスーザンの壮絶な戦いが始まった。

三年の間に、九回の手術、三過程のキモセラピー化学療法、放射線治療を受けた。過酷な辛い化学治療と痩せ衰えていく体を支えながらも、スーザンはいつも笑顔でいようと努めていた。家族を気遣い、時には他の患者たちのことを思い、明るく生きようとしていた。家族はその笑顔にどんなに救われたことだったろう。

しかし、ナンシーは、姉がどうしても笑顔を見せられない場所があるのに気づいていた。病院の待合室であった。硬い椅子、待ち時間の長さ、待つ間の不安、どのように繕ってもこの場所に来ると顔の表情が硬くなっていた。

ある時、スーザンはナンシーに言った。
「ねぇ、ナン。私の病気が良くなったら、あなたと一緒にやりたいことがあるの。私が今受けているような乳癌治療の状況をどうにかしなくちゃね。まず、あなたは、乳癌の研究を早く進める方法を探してちょうだい。このような辛い治療を受けなくてすむように、一人でも患者を減らす対策。乳癌に対する教育も必要ね。もちろんできるわよね。それから、この病院の待合室を改良したいわ。ここはあまりに寒々としている。ここで待たなければならない女性たちのために、もっと素敵な温かい雰囲気の部屋にしたいのよ。分かるでしょ。私の気持ち」

スーザンは、本人の生きる気力も家族の願いも虚しく、自分の描いた夢を叶えることなく三十六歳の若さで死んでいった。もし町医者が早く的確な診断と処置をしていたら、もし、セカンドオピニオンのシステムができていたら、もし信頼できる手術医に執刀を任せていたら、もし、癌は再発の恐れがあると言われていたら。もし、もし・・・・・・。家族の後悔、若くして娘を先立たせる親の悲しみ、仲の良い姉を亡くす辛さは計り知れないものだったろう。

ナンシーは、姉の死と意志を無駄にはしたくなかった。スーザンが自分に託した言葉を実現させなければと思った。ナンシーは動き始めた。
http://cms.komen.org/komen/AboutUs/SusanGKomensStory/index.htm

アメリカでは、25年前、スーザン・コーメン・救済レースが始まった頃、乳癌罹患者で転移がない人の五年生存率は、74パーセントであった。それは現在、98パーセントにまで伸びた。1982年に定期的にマモグラムを受けていた人は、30パーセントだったが、四十歳以上のマモグラム検診者率は75パーセントまでに上がった。現在アメリカの乳癌罹患者は、二百万人にのぼる。2007年度の乳癌による死亡者は約四万人に達すると推測されている。女性の癌死亡者数では肺癌についで二番目である。(The Oregonian, September 24,2007)

友人の直美さんは、四十歳代半ばの日本女性で一緒に歌を歌う仲間である。この春数年ぶりに婦人科検診を受けたが、乳癌検診のマモグラムで癌細胞の可能性のある部分が見つかった。彼女は、歌の練習に来たとき言った。

「私、乳癌の検査で引っかかってしまい、針細胞検査では分からなかったので、ゴルフボール大の胸の肉を採ってもっと詳しい検査をするんですよ」

私達は、その明るさ、正直さに驚いた。まるで風邪をひいて病院に行ったかのような報告であった。直美さんの検査結果は「癌」であった。初期の段階での発見であったため、急進性の癌であったにもかかわらず、治療は放射線を数ヶ月受けるだけで済んだ。キモセラピーを受ける必要がなかったため、髪の毛も抜けず、体力の消耗も少ない状態で治療を終えることができた。直美さんは付け加えた。

「私は本当に幸運だったと思います。『もし、後数ヶ月検診が遅れていたら、進行の早い危ない癌だったため、命に係わっていたかもしれない』と医者から言われた時には、自分でも驚きました。私は、この経験を通して婦人科の定期検診がどれほど大切であるか身をもって知らされました」

放射線治療が終わった後、直美さんから連絡が入った。スーザン・コーメン・救済レースへの誘いであった。直美さんは、検診の大切さを訴えるために、スーザン・コーメン・救済レースに参加登録し、その上に、この活動で多くの乳癌罹患者が助かるようにと募金活動を始めた。募金に協力、レースに参加してもらえないかと私を誘ってくれた。私は、喜んで参加すると答えた。

全てはインターネットで行われる。八百ドルの個人目標を立てた直美さん名義の募金、レースの登録も支払いもコンピューターでできた。一人当りの参加費は二十五ドル(約三千円)。私は十五歳になる娘と歩くレースに参加する登録をした。六歳以上十二歳以下の子供の参加費は10ドルである。

ここポートランドのレースは、今年十六年目を迎え、セント・ルイス(St.Louis)、デンバー(Denver)についで三番目に大きな大会へと発展していった。このレースや企業、団体寄付金の今年の目標額は三百万ドル、約三億六千万円である。

2007年9月23日、日曜日、ダウンタウンの街から車が閉めだされた。角々にパトカーが止められ警察官が見守る中、朝七時、約七千人がレースで走った。レースであっても競技大会ではない。二時間後の九時には四万人あまりが五キロメートルを歩いた。その他、一マイル歩き、ボートやソフトボール救済競技、ボランティアに関わった人々を含めると五万人近くがこのレースに参加したことになる。この地方の人口は、近郊の市を含めると約二百十万人である。実に住民の四十数人に一人がこの活動に関わった。

ピンクの帽子や鬘をかぶった熱烈な支援集団
ピンクの帽子や鬘をかぶった熱烈な支援集団。
手前男性のながーいピンクのまつ毛にご注目!
家族や友人の名前を書いた紙をつけて歩いている。
ピンクの紙は2種類の意味ある。
家族や友人の名前を書いた紙をつけて歩いている。
“I race in celebration of (Survivor’s Name).” 乳癌を克服した(名前)のためにレースに出ています。
“I race in memory of (Dead Person’s Name).” 乳癌で亡くなった(名前)のためにレースに出ています。

女性ばかりではない。男性も、お爺さんやお婆さんも、若者も学生も小さな子供たちも歩いた。乳母車を押す人、車椅子の人、犬を連れた人、着飾った亀を連れている人もいた。私は一緒に参加した友人佳枝さんと顔を見合わせ、
「あの亀と一緒に歩くつもりなのかしら。何時間かかるの?」
と首を傾げた。

この活動はピンク色を特色とし、ピンクのリボンがトレードマークである。参加者は個性を出し、お揃いのピンクのかつら、帽子やリボンなどを身に付け、熱烈なサポーターであることを印象付けようとしている集団も数多くあった。また、ピンクの紙に、自分の家族や友人で乳癌に罹り亡くなった人の名前を書き、「あなたと一緒に歩いていますよ」とシャツに付けている人もたくさんいた。ジャケットやセーターを着て歩いている人もいたが、ほとんどどの参加者は参加登録と交換にもらった白いTシャツを着ていた。時々ピンクのTシャツの女性たちも見受けられた。

ダウンタウンの車道が人の川となって静かに流れているのを見るのは感動的な光景であった。皆ゆっくりと楽しげに歩いた。途中で写真をとる人、沿道で応援のために楽器を演奏しているグループに聞き入る人、踊っている学生たちを見るために立ち止まり楽しむ人、それぞれが自分のペースで歩いた。私たちは、ゴールに着くのに一時間二十分程かかった。

ゴールの一角に、バラの花を抱え手渡している人が数人いた。ピンクのTシャツを着た女性だけがそのゴールに入って、バラの花を一本もらっている。たくさんの女性たちが笑顔でそのゴールを通過していた。何だろうと見ていると、直美さんもそのゴールに入っていった。乳癌罹患者、克服者たちのためのゴールであった。私は、私たちのグループの中で直美さんだけがピンクのTシャツを着ていた意味をその時初めて理解した。バラの花をもらった直美さんは、ご主人に寄り添って泣いた。二人の娘と泣いた。一緒に歩いた私たちに感謝して泣いた。私たちも泣いた。

Brest Cancer Survivor
写真は、“Breast Cancer Survivor”と呼ばれる人たちがゴール(Finish)に入ってきたところである。
乳癌克服者は“Breast Cancer Survivor”としてレースに登録し、ピンクのTシャツをもらう。
彼女等は、乳癌を克服したことを誇りに思うかのように、堂々とし美しい笑顔を見せている。

直美さんは言った。

「私が乳癌にかかって、私の家族は、私のありがたさがよーく分かったのじゃないかと思います」

ちょっと考えて、彼女は言い換えた。

「いいえ、そうじゃないですね。私が、家族の愛情をどれほど温かく感じ、家族の支えに感謝すべきかを教えてもらったというほうが正しいでしょうね。今私は、この運動が日本でも広がってほしいと思っています」

 日本でも「ピンクリボン・スマイルウォーク」という会が、東京、仙台、神戸で開催されている。参加費千円(子供五百円)で、各レース先着順の二、三千人に限定されている。参加費用の一部が「ほほえみ基金」に寄付されるとのことだ。

この素晴らしい運動が、アメリカのように大きく成長してほしいと心から願っている。