入門翻訳勝ち抜き道場
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12月22日号
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Did you know that?

田中寿美
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5. ダイアナ妃と私

もう、過去の人になってしまった。美しかった。憧れだった。大好きだった……。ダイアナ妃の死は、衝撃的だった。お昼の十二時ごろ、つけていたテレビに突然英国旗が映り、ダイアナ妃の死亡報告のテロップが流れだした。私は、何かの間違いじゃないかと思うと同時に、家族でもない、友人でも知りあいでもない人の死に、心臓がドキドキし、頭の中が真っ白になって悲しんだことを、今でもはっきりと覚えている。

ダイアナ妃がウィリアム王子を出産したときのことだ。翌日、にこやかに手を振り、笑顔で退院する姿がテレビで映された。キラキラと輝いていた。当時、私は日本に住んでいたが、結婚もしておらず、もちろん出産経験もなかった。ダイアナ妃が出産後、あまりに早く退院したことは、大きな話題となっていた。

「二十歳そこそこの出産だし、あの立派な体だもの、きっとポロッと子供が生まれたのよ。宮殿内ではなく、公立病院で出産したという話だけど、退院したって主治医だ、看護婦だのって揃っていて、病院と変わらないのだろうからいいわよね。いつ退院したって……。やっぱりプリンセスなのよ」 

と思った。

ダイアナ

1997年8月、ダイアナ妃は不慮の事故で亡くなった。その翌年、私の母と妹家族はイギリスを旅した。妹は、ロンドンでダイアナ妃のポストカードを見つけるや否や、「もうこれからダイアナ妃の写真が店先に並ぶことはないだろう」と数枚を買い、アメリカに住む私に送ってくれた。この写真は、そのハガキである。

同じ母として思う。子供たちの成長を見届けることなく逝ったダイアナ妃の無念さは、如何ばかりだったろうと……。(H.R.H. Diana Princess of Wales –Crown Copyright © 1994. Photography: Snowdon)

ウィリアム王子誕生の数年後、一九八七年、私はアメリカ人男性と結婚し、翌年初めての出産もアメリカですることになった。英語も良く理解できない、妊娠のことも、出産のことも何も分からなかった。頼れる家族も親戚も近くにはいない。私は妊娠出産の本を読み、夫と一緒に妊娠教室に通い出産に臨んだ。

陣痛が始まり病院に入ったのはお昼ごろであった。立派な個室に通された。私は、特別に頼んだわけでもないのに、テレビもロッキングチェアーもトイレもついた部屋で、出産を待っていてもいいのだろうかと思った。しかし、この病院で、この部屋は普通の分娩室であり、正常なお産であれば、そのままそこで出産となると説明された。部屋に残された夫と私は、子供が生まれるまでその部屋で過ごすことになる。医者や看護婦がいつもこの部屋にいるわけではないので、夫は、私の痛む背中をさすったり、うろうろしたり、一緒にテレビを見たりした。さすがに夜中の十二時を過ぎると、疲れたのか、私の狂うような陣痛をものともせず、大きなあくびを何度もしながらうつらうつらしていた。

午前一時五十四分、四キログラムの元気な男の子がうまれた。出産の喜びも陣痛の苦しさも忘れ、泥のように寝入った。時々、授乳のために起こされたが、ただただ眠たかった。すっきりと目が覚めたときには、夕方になっていた。突然不安になった。

「確か、入院の契約書には、出産後二十四時間で退院させられるようなこと書いてあったけど……。すると私の退院は、まさか夜中の二時ってことはないでしょう。退院は、いつになるのかしら」

と思い、夫に聞いた。

「真夜中に退院させることなんてないから、心配しなくてもいいよ。きっと明日の朝になるだろう」

何もわからなかった私は、その決まりに抗うこともせず、初産でぼろぼろに疲れ傷ついた体を引きずりながら、出産後三十二時間、翌朝十時に子供ともども退院した。長い陣痛で疲労困憊していようが、会陰切開の跡が痛くて座ることができなかろうが、普通分娩で母子ともに健康だった私たちは、病院を追い出されたわけである。

車椅子を押した看護婦が病室に入ってきて、私に椅子に乗るように指示した。私は、自分で歩けるので乗らなくても大丈夫だと断ったが、病室で無理やり座らされた。別の看護婦が子供を抱いて付きそい、玄関口まで送ってくれた。病院で患者を車椅子に乗せるのは、病院内で転んで怪我でもされ、訴訟問題になっては困るためか、あるいは、あまりに早く退院させることの罪悪感を払拭するためか・・・・・・。夫が玄関先に車を寄せた。私は車椅子を降り、生まれたばかりの赤ん坊をカーシートに乗せ家に帰った。我が息子、生後二日目にしてカーシートに乗って車で移動という偉業を成しとげた。ウィリアム王子と同じではないか。

我が家に帰って母親第一日目、夜中に息子がひどい咳をした。息が詰まってオエッと言ったとき、私はパニックに陥った。出産の手伝いに来ていた義母Eleanorのところに這うようにして行った。

「理雄が死にそうなの。たすけて!」

「元気に生まれた子は、そんなに簡単には死なないの」

義母は答え、赤子を見てくれた。ただひどい咳をしただけだったのだ。しかし、初産を終えたばかりの母親に何も分かるはずはない。日本の病院のように出産後、一週間近く、手取り足取り新生児のことを教えてくれるところで産みたかった。

それから三年半後、今度は二度目の出産の時のことだ。平成四年四月四日、昼過ぎに陣痛が始まった。予定日までは二週間以上もあったが、二番目なので、早く生まれる可能性があると思い、すぐに予約を入れ病院へ行った。手続きが済むと四階へ行くように言われた。私は不安になり夫に聞いた。

「まさか四号室じゃないでしょうね」

「まさか……」

四号室だった。日本なら四号室で子供を産むなんて考えられないことだろう。第一、病院に四号室なんてないと思うけれど……。

「平成四年四月四日、四階の四号室、午後四時四分に生まれたりして……。大丈夫よ、ここはアメリカだから。四はラッキーナンバーよ……」

私は顔をこわばらせながら夫に言った。

陣痛は、ひどくはなかったが、きりきりと下腹が痛み苦しかった。夫はどこからか仕入れてきた情報で、妊婦の手のひらをよく揉むと陣痛が和らぐといって、私の掌を一生懸命揉んでくれた。ところがどうしたことか、揉み始めて一時間もすると体がずいぶん楽になった。そして陣痛の間隔は次第に遠のいていった。四時四分も過ぎ、五時半になったとき、陣痛は、完全になくなってしまった。

「きっとこの子は、今日、この部屋で生まれたくなかったのね。よかった……」

私は陣痛がなくなったことを看護婦に伝えた。私たちは、そのまま自宅に帰ることになった。帰るとき看護婦が言った。

「See you tomorrow!」

翌日病院に戻ると思って自宅に帰ったが、数日たっても一向に陣痛は起きない。困り果てた私は、友人たちに聞いた。

「何か陣痛を起こすいい方法知らない?」

「ラザニアをいやと言うほど食べるといいわよ」

「階段の上り下りを何度もやるの」

「雑巾で床を這いつくばって拭いてみたらどう?」

とは日本人の助言。

ありとあらゆることをやってみたが、何の変化もなかった。もう三週間も前から手伝いに来ていた母と妹が、翌日日本に帰るという四月二十五日朝、私はどうやってでも産む決心をしていた。母と妹に子供を見てほしかったからである。するとどうしたわけか、軽い陣痛が始まった。これ幸いとばかり、病院に出かけ入院した。案内された病室は八号室だった。末広がりだーい!この部屋で産むぞ!

私の担当医師は中国系アメリカ人だった。診察を終えた後言った。

「今日は生まれないかもしれないから、一応家に帰りますか」

出産も二度目だ。英語もしゃべれる。私は言い張った。

「えっ! もう一度家に帰るんですか。いいえ、それはできません。今日産みます。産まなければならないのです。そうしないと、せっかく日本から来ている私の母と妹は、子供を見ずに明日日本に帰ってしまうのです。どうにか産ませてください」

と頼むと、医師はにっこり笑って、

「そうですか。わかりました。お母さんに子供を見せるためなら、今日産むようにしましょう」

すぐに、破水処置をしてくれた。二時間ぐらいたつと、本格的な陣痛が始まった。子宮頸を調べにきた看護婦が驚いて言った。

「あと、十五分で生まれます。いきまないで!すぐドクター・リーを呼んできますから」

信じられなかったが、十五分後の午後四時二十五分、三千九百五十グラムの女の子が生まれた。

そばで夫が、写真を撮ろうとして愕然とした。カメラが動かないのである。あわてている夫に言った。

「ちょっと私に貸して!」

私は、子供を産んで二分も経たないうちに、カメラを触っていた。電池の接触部分を調べたらすぐ動き出した。

「はい、ちゃんと写真を撮ってくださいよ」

と手渡した。二人目の出産は、初産のときとはずいぶん違うものだ。

出産後二時間もすると、事務の人と退院の話が出た。

「明日の朝十時ではどうでしょうか」

ショックであった。私は夫に相談した。

「いくら私が元気だからって、出産後十七時間半で退院なんて聞いたことがない。せめてもう一日位病院にいさせてくれてもよさそうなものを、ひどいじゃないの。出産後二十四時間は、いることができるんでしょ。これで私が家に帰ってぶっ倒れたら、病院を絶対に訴えてやる。ねえ、明日、あなたは仕事が忙しいってことにしてよ。そして、午後しか迎えにこられないって言ってよ」

この言い訳は通り、午後二時まで病室で過ごすようになった。病院で、お昼ごはんを食べることができたのは嬉しかった。私は、出産後二十一時間三十五分で退院した。娘は、生後二十二時間以内で車に乗った。母と妹は娘の命名も手伝い、翌日安心して帰路についた。

アメリカでは入院医療費が高いため、医療保険会社との駆け引きで、入院は命に支障をきたさない程度の日数しか許さなくなっている。これは出産だけでなく、事故、疾病、救急治療、手術後も同じである。八十三歳の義父Davidは、五年前、心臓発作のため救急車で病院に運ばれた。しかし、容態が安定した二日後に退院させられた。その二年後、今度は前立腺癌が見つかった。検査の結果、通院で放射線治療を受けることになった。一日も入院させてくれなかった。それでも、命に支障はきたさなかった……。幸いだった。産後の入院の短さは異常だと誰かが訴えたか、倒れたか。数年後、病院や保険で違うが、出産後最低四十八時間は病院にいることができるようになったところもある。

ダイアナ妃と私、実はなーんにも関係ない。しかし、私は自分が、高齢出産にもかかわらず、ダイアナ妃に負けないくらい短い時間で退院するとは夢にも思わなかった。

大きな違いは、美しい服を着て颯爽と笑顔をふりまきながら退院したダイアナ妃に比べ、私は、前日病院に着ていったマタニティドレスを、子供を産んだ翌日も着て帰った。そして、その姿を、見に来る観衆もメディアもいなかったことである。当たりまえか……。