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12月22日号
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田中寿美
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2. 父とは、話していたのかもしれない

ポートランド市とMt. Hood
ポートランド市とMt. Hood

ポートランド市はダウンタウンを中心に、東西南北に広がった郊外の街を含めると人口約210万のアメリカでは中堅の都市である。ダウンタウンは、アメリカでも数少ない美しく安全な街として、都市計画のモデルとなっている。
フッド山は、富士山とほぼ同じ11,249 ft(3,429 meters)の高さであり、昔インデアンが神と崇めたほど凛々しく美しい山である。市の中心から車で、約1時間半で行くことができ一年中スキーが楽しめるため、市民の最高のリゾート地となっている。日本から、夏スキーの訓練にも多くの若者たちが訪れる。

私は、今でも父の考えや気持ちが理解できない。大学に入るまで、親元で育ち、父とは毎日顔を合わせていた。しかし、一緒に暮らしていても、父が自分の仕事や家族、私たち子どもに対してどのように考えているかまったく分からなかった。

父は話さない人である。話さないから、何を考えているのかわからない。九州男児だからでもないだろうが、「飯、風呂、寝る」の三言さえおぼつかない。

家を出て、もう三十年以上経った。いまさら、父を理解しようとしても無理があることはわかっている。時々、アメリカから熊本の実家に電話をすると、父が出る。

「もしもし、お父さん。寿美だけど、元気ね」

「ああ、元気よ。お母さんと代わるけん」

もう、受話器は耳元から離れ、どこかに置かれていることだろう。話そうにも、独り言になってしまう。ずっと受話器を持たれていても、次になにを話すか戸惑ってしまう。なんとも、生まれてからそれほど話をしたことがないのだから……。

さて、そんな父とも、私は私なりに話をしていたようだ。時々思い出す二人の間の会話は、何万倍も話した母との話より印象深く残っている。不思議だ。

私が小学生の頃、当時築百七十年以上経っていたおんぼろ我家では、雨漏りが絶えない時があった。台所、居間など天井のあちこちからポトポトと雨がしたたり落ちてきた。私が一番いやだったのは、トイレだった。狭いので、逃げ場がない。用も足さなくてはならない。夏には時々蜘蛛やゴキブリも参上した。九州の蜘蛛やゴキブリは大きい上に元気いっぱいなのだ。襲われないように目をしっかり見開いて、身を守らなければならない。このような悲惨な状況の中で、雨が漏るのは大変なことだった。梅雨時のトイレは地獄だった。

ある日、私は思い切って父に言った。

「お父さん、トイレが雨漏りするけん、どうにかしてちょうだい」

父は、まじめな顔で答えた。

「雨が漏るなら、傘さしていけ」

傘を差して行けったって、どうやって用をたすのよ! 喉まででかかった言葉を飲み込み、父には何を言っても無駄だと思った。父は、幼い頃から使用人が大勢いる大家族の中で育った。その上、一度も生家を出て暮らしたことがない。そんな父に大工仕事を期待したのが間違いだった。

結局、いつの間にか誰かが屋根を修理してくれたにちがいない。その後、トイレの雨漏りを直してくれと頼んだ覚えはない。

父は、造園事業を拡大しようとしたがうまくいかなかった。その後の母の苦労は、言葉に尽くしがたい。娘四人、大学まで行かせてくれはしたが、家計の苦しさは、子どもの私にも充分わかった。ある日、私は父に思い切って言った。

「うちはどうしてこんなに貧乏なのね。どうにかならないのね。友達のうちはどこでもお金持ちで、いい家があって、なーんでも買ってもらえて羨ましい」

父は答えた。

「お父さんは、お前たち子どものためにわざわざ貧乏をしてやっとるんだ。子どものとき貧乏をしておれば、結婚してどんな所に嫁にいっても、実家よりまだましだと思うだろ。そうすれば、自分の置かれている状況を感謝するようになるぞ。よーく覚えておけ」

「そんなこと言ったって、私は、今お金持ちの方がいいよ・・・・・・」

という心の叫びは、父には聞こえなかったにちがいない。

高校三年になり、就職か進学かを迷っていた頃のことである。それほど勉強が好きなわけではなかった。大学にいきたい気持ちもあった。しかし、その頃流行っていた「アテンションプリーズ」というテレビ番組に刺激され、スチュワーデスになって世界を駆け回ってみたいと思った。花形職業はかっこよかったもの。東京や関西に修学旅行でしか行ったことのない田舎娘が、世界を羽ばたくことができるなんてすごいことだと想像していた。

その頃、父は市の農業組合が主催する「ヨーロッパ農業視察旅行」に参加し、生まれて初めての海外旅行を楽しんだ。飛行機やバス、電車で三週間も移動し、今まで見えなかった世界を見てきたに違いない。

「ヨーロッパでは、フォークの背にナイフでご飯をこんなふうに乗せて食べるんだぞ」

と父がやってみせると、急に家中が高尚になったようで、皆で一生懸命練習した。そんな父が、急に国際的で偉くなったような気がした。

私は自分の将来について、父に相談した。

「私、スチュワーデスになりたいんだけれど、どう思う」

父は答えた。

「スチュワーデスは、飛行機の中ではウェートレスみたいなもんだった。どの人もきれいかったけど、ご飯や飲み物を持ってきてくれるばっかりだった。せっかくなら、飛行機の乗客になってサービスされる側になった方が、人生おもしろいかもしれんぞ」

「ふーん。サービスされる側になれったって、どうやったらそんなになれるのよ」

結局、父からそれについての答えはなく、私もスチュワーデス試験に落ちて、大学進学に方向転換せざるを得なかった。

その後、大学も卒業し、就いた仕事には飛行機で国内のあちこちへ行く業務が含まれていた。時には、毎週のように飛行機で移動していた。

「これが、父が言っていた乗客になれってことかしら……。でも、乗っている時間は国内線だから短いし、サービスだってジュースや飴玉一個だけだ。それに席は狭くて窮屈なのでサービスを味わうなんて気持ちにはなれない」

と思いながら、乗り合わせたスチュワーデスを見るといつも素敵で、自分がなれなかった分だけ憧れだった。

就職後数年が経ち、お金にも余裕ができた。夏休みや休暇を合わせると二週間以上休めることもわかった私は、友人と二人でアメリカ旅行を計画した。父に、

「恵美ちゃんとアメリカに旅行したいけど、行ってもいいね」

と尋ねたら、

「お父さんはアメリカに行ったことなかけど、ヨーロッパ旅行は素晴らしかった。ヨーロッパの農業や造園業は日本とはまったく違う。これから日本もどんどん変わっていくからな。海外旅行は、若い時、足腰丈夫な時にしろ。動きやすく、脳が働いて、物がよく見えるときの方がいいぞ。お父さんも、もっと若いときにいろんな外国に行っとったらよかったなあ」

と言った。その時の私は、父の言葉を深くは理解していなかったように思う。父が言ったように、初めてのアメリカ旅行は、私の目を開かせてくれた。勉強していたつもりの英語は役に立たず、観光案内の説明もチンプンカンプンで、たらたらと聞こえてくる英語は時差ぼけの頭に子守唄のように聞こえた。もっと真面目に勉強しよう。私にとって英語が将来役に立つという保障は何もなかったが、勉強することが楽しくなった。

しかし、運命とは不思議なものである。その数年後、私はアメリカで一年間過ごした。そして、アメリカ人と結婚し、永住権を持ち、アメリカに住むことになった。子どもたちが生まれ、私は、毎年子どもたちを連れ日本に帰るようになった。長時間の飛行機での移動は本当に大変だった。太平洋を何度往復しただろう。スチュワーデスへの憧れも、サービスされる側の楽しみも感じる余裕はなかった。このような人生が待ち受けているとは、夢にも思わなかった。

子どもたちが成長した今、私は、飛行機内での誰にも邪魔されない時間を楽しむことができる。父の言葉が分かったような気がする。

父とは、話していたのかもしれない。