The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

Did you know that?

田中寿美
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人を知るには、その人が自分の二親を語るのを聞けばいい。語りたくないことがあれば、それは語らない。忘れたことはそのままでいい。こしらえ事は語れない。二親を限りなく愛しく思う気持ちで、語りたいことを語ってもらえば、もうそれでいい。目の前にいる彼(彼女)が幸せであるのが分かればそれでいい。

田中寿美(としみ)さんは母のことを語って、「お母さん、ありがとう。あなたの容認と忍耐そして深い愛情に、言葉では言い表せないほど感謝しています」と結んでいる。いいじゃない、こうした言葉を母に捧げることができる人がいる。寿美さんと知り合い、その原稿を読みながら、それを編集者冥利につきると思っている。

二親のことだけでない。アメリカで暮らしている寿美さんに語ることがまだまだある。アメリカのこと、オレゴンのこと、夫のこと、子供たちのこと、隣近所の人々のこと、言葉のこと、日本のこと、そう、アメリカに渡っていま心から語りたいと思っているのは自分が日本人であることだった。テーマを変えてオレゴンでのことを語っているが、それを読んでくれるのは日本人だ。寿美さんはそれをDid you know that?といって語っている。

『WEBマガジン 出版翻訳』は良書を世に出すために、翻訳者の感性を養い、翻訳の技量を高め、良い日本語を書くことに役立てることを狙いとしているが、これから連載される田中寿美さんのエッセイで、翻訳者に求められる「心のあり方」を読み取ってほしい。人を愛せない者に翻訳はできない。臆することなく自らの心を語るとき、良書良訳が誕生する。(藤岡記)

1. 母へ

母の髪が真っ白くなった。私がアメリカ人と結婚したいと告げてから,二ヶ月ほどたった頃のことである。それまでは、胡麻塩頭のように黒髪も混じっていた。その夜、久しぶりに会った母の髪を見て驚いた。染めることさえ忘れたのだろう。額の生えぎわから一センチメートルぐらいが、染めた黒髪との間で際だって白く光っていた。

眠れない日が続いたらしい。熊本から東京の私のアパートに、夜中や明け方何度も電話がかかってくるようになっていた。

「寿美……」

母のかすかな声。それ以上は何も言わない。きっと言えなかったのだろう。夜中の二時。怒り、悲しみ、焦燥感そして諦め。愛する娘が、自分の知らない地球の果てに嫁に行ってしまうかもしれない。どうしようもない心の痛みを私の声を聞くことで和らげようとしたのだろう。

「お母さん、ごめん…」

これ以上は私も答えられない。しばらく沈黙が続き、ガチャンと受話器を置く音がする。母の悲しみはわかる。だけど、どうすればいいのよ。やりきれなさに涙がポロポロこぼれてくる。

私が渡米したのは、一九八五年だった。そのころ、東京の大手建築設計事務所で社長秘書をしていた私は、仕事に満足感もなく、恋人もおらず、いくつかの恋愛にくたびれ果てていた。そして、自分がどのように生きていくのか、人生の目標も計画もなく途方に暮れた。友人たちがどんどん結婚し、子育てに忙しく、絵に描いたような幸せな生活を送っているのを横目で見ながら、自分は一生結婚できないかもしれないと思っていた。それならどうやって生きていけばよいのだろう。東京で高い家賃を払いながら、好きでもない仕事を続けて一生を終えるのか。みそじ三十路女の葛藤に自問自答しながら、人生を暗中模索していた。

そんなとき、職場のアメリカ人の友人から、

「英語を勉強したいのだったら、アメリカに行ってきたら。ぼくのガールフレンドのところに滞在できるように紹介してあげるよ」

と誘いがあった。英語の勉強は、自分なりに細々と就職してからも続けていた。私はそのころ、故郷の熊本に帰って子どもに英語を教えて暮らそうかと、人生の転機を考えていた。

「アメリカか……」

行ってみようと決めた三ヶ月後には会社を辞め、その一ヶ月後にはアメリカ・オレゴン州ポートランドという街に行くことにしていた。両親には、アメリカに行く計画は言わなかった。生活費も学費も全て自分で準備した。出発当日、成田空港のロビーから家へ電話をかけた。父が電話に出た。

「あ、お父さん。今から、アメリカに三ヶ月くらい勉強にいってくるから、お母さんに心配せんように伝えておいてね」

と言っただけだった。今考えてもなんとひどいことをしたのだろうと思う。強がって、心配しないようにと親には言ったものの、知り合いもいない外国に一人で行く不安な気持ちは、なんともいえないものだった。飛行機に乗り込むときの震える足の感覚は今でも覚えている。

ポートランドは、アメリカの北西部に位置し、ロサンジェルス、サンフランシスコ、シアトルについで西海岸では四番目に大きな都市だ。成田から九時間も飛行機にのっていれば着く。着いてからしたいことはいろいろあった。

まず、街の大学で授業を取る登録をし、休みを利用しアメリカのあちこちを見てみようと計画した。しばらくして落ち着くと、日本に帰ってからの夢を描き始めていた。『そうだ、やっぱり熊本に戻って、子供たちに好きな英語を教えて暮らしていこう。それがいい。これで親不孝娘を持った親への償いができる』自分の生きていく道を決めかけたとき、大学で日本文学を教えているアメリカ人の男性と出会った。

私がこの街に来て最初に知り合ったマーサという女性が、彼の学生であったことから紹介され、付き合いが始まった。彼のへたな日本語と私の乏しい英語で、二人の恋愛は実っていった。私は、それまで一度も日本を母国として、その良し悪しを客観的に見たことがなかった。彼はそんな私に、日本の素晴らしさを教えてくれた初めての人であった。日本文化や歌舞伎をこよなく愛し、狂言も自ら演じた。日本文学のみならず、シェイクスピアからロシア文学まで語り、私のどんな稚拙な質問にも丁寧に答えてくれた。その知識の深さにコロッと参ってしまったのだった。彼は私の美貌に心ときめいた、と軽く言っているが、知性や性格はどうでもよかったらしい……。

さて、二、三ヶ月の滞在のつもりが一年になり、私はビザの関係から日本に帰らなければならなかった。彼は私と結婚したいと言いだし、東京で一年半働く仕事を見つけてきた。

「この人と一緒に生きてみよう」東京に戻ってしばらくして母に電話をした。

「向こうで知り合ったアメリカ人と結婚しようと思っているけど、お正月に連れて行っていいね」

無言の母。

「お母さん、私ももう三十歳を過ぎているよ。もしこの人と結婚しなかったら、一生結婚しないかもしれない。人間一回ぐらい結婚してみたほうが良いと思うけど……。もしダメだったら、すぐ帰ってくるから……」

「アメリカ人じゃなかね、言葉がわからん……」

「日本語はできるから心配せんでもいいよ。世の中には日本語を喋っていても理解できない日本人は、いっぱいいるでしょうが」

私は、慰めともなんともつかぬ言い訳をしながら、結婚の承諾を得ようとしていた。母の深いやり切れない悲しみなど察する余裕はなかった。

その後の十ヶ月間、私と母の関係は悲惨なものであった。しかし、私は自分の意志を曲げず、東京で結婚式をする準備を進めた。夫の両親、妹弟もアメリカから招待した。夫の家族は、一九五〇、六〇年代、日本に二度、計三年半も住んだことがあるので、東京での結婚式を楽しみにし、古い友人たちとの再会を待ち望んでいた。私は、願いはかなわないかもしれないと半分諦めてはいたが、父母にも出席してくれるように頼んだ。結婚式当日、絶対行かないという父を、東京まで連れてきてくれたのは母であった。

「あの娘が二度結婚するなら、今回は行かなくてもいい。だけど一回しかしないかもしれないから今日は出てください」

と、なんとも可笑しな説得をしたそうである。姉家族、妹家族、末妹、家族全員が出席してくれた。夫も私の両親のことを考え、式は神前ですることに同意し、私は文金高島田に白無垢の衣装、夫は紋付、袴で結婚式を挙げた。

あれから二十年。母は、二度渡米した。私の末妹もアメリカ人と結婚し、ベルギー、アメリカに住んだ。今はロシアに住んでいる。母は妹を二回訪れ、ヨーロッパ旅行を楽しんだ。

自分の生まれ故郷からほとんど出たことのなかった母は、娘たちの成長と結婚を通し、世界を見るようになった。最近は、

「アメリカも、ヨーロッパも住みやすかねー」

と言っている。自分ではお金を使わず、娘や孫たちが不自由してないかと心配し、せっせと小包を送ってくれる。ときどき、郵便配達のキャシーが小包を届けながら、

母の日 花束

「この小包はあなたのお母さんが日本から送ってくるの? ずいぶん郵便代が高いけど何が入っているの? こんなに高い郵便代金は見たことがない。もう少し安い方法を日本の郵便局に聞いて、お金を節約した方がいいよって伝えなさい」

と言う。私は、

「この箱には母の愛情がいっぱい詰まっているの。だから重いのよ。母は、自分の子どもや孫たちにいろんなものを送りたいといつも思っているの」

と言うと、キャシーは、

「I want to have your mother!」

と言う。

葛藤を乗り越え、私たちの結婚を許した母は、強くなった。

お母さん、ありがとう。あなたの容認と忍耐そして深い愛情に、言葉では言い表せないほど感謝しています。

いみじくも、2007年5月13日「母の日」にこの原稿を掲載していただきました。熊本にいる母に感謝をこめてこの原稿を捧げることできました。有難うございます。