17.踏みたおしたファックス代
「アメリカに長年住んでいると、自分の意思をはっきり主張することができるようになるものねえ」
と言ったら、
「何年住んでもできない人、アメリカ人でも主張しない人はいるわよ。そんなの個人の違いよ」
日本人の友人に一笑されてしまった。確かに私は自己主張の強い女である。「いや、強いおばさんである」とこれも訂正された。
アメリカに二十年も住めば、いろいろな出来事に直面し、その時々で解決しなければならないことが出てくる。揉めごとの嫌いな夫を持つと、私自身、家族や家庭を守ろうという意志がますます働いてくるのはしかたがない。
自己主張については、私が、アメリカ人である夫以上にアメリカ人だと言われる所以の一つはこうである。
夫と私は、1999年12月に弁護士を介して遺書を作った(No.16「遺書」参照)。別にあり余るほどの財産があって、争い事が起こるかもしれないなどという不安からではなかった。アメリカでは、個々の事情で、若くても遺書を作る夫婦は多いらしい。私たちもアメリカ人と日本人の夫婦であり、家族や親戚も近くに住んでいないため、自分たちに何かの不都合があった場合、未成年者である子供たちのことで揉め事が起きないよう遺書を作った。
アメリカで遺書をつくるには、まず遺書全般を取りあつかう弁護士を決め、その弁護士立会いのもと、四、五十枚ほどの書類に署名をしていく。この枚数や種類は作る個人や家族、依頼する会社によって違うと思うが、一度しか作ったことがないので、他の会社の詳細についてはわからない。
最初の弁護士とのミーティングが終わって数日後、弁護士の秘書から自宅に電話がかかってきた。
「遺書に関しての書類を、ファックスでそちらに送ろうとしているのですが、何度送信してもできないのです。どうしてかしら……」
「そうですか。おかしいですね……」
遺書の書類を弁護士と一緒に読みながら署名してくと、その時間も弁護士の仕事代として、一時間ではなく一分間にいくらという具合に料金が加算されていく。それを嫌った夫は、書類を自宅で読みすべてを確認してから事務所で署名したいので、書類を自宅に送ってくれるようにと頼んだらしい。
「変ですね。紙はじゅうぶん入っていますか」
「紙ですか? 入っていますけど、じゅうぶんって何枚くらいですか」
「五十枚くらいですが・・・・・・」
「えっー!五十枚もですか? そんなにたくさんの書類が送られてきたことがないからわからないけど、我家の安価な家庭用ファックスでは、一度に五十枚も受信できないんじゃないかと思います」
「困りましたね……」
私は、我家のファックスが、50枚を受けるのにうまく機能するかどうかとても不安だった。途中で紙詰まりなどして壊れたら修理代も高いし、できれば取りに行くことを承諾してほしいと思った。
「主人の大学は、お宅の会社のすぐそばですから、お昼休みにでもそちらに取りに伺わせます。ファックスで送って頂かなくても結構ですよ。主人が忙しいようであれば、今から私が取りにいきましょうか。それに、郵便で送ったとしても明日には届くと思いますが……」
「ファックスのほうが簡単だから……。そちらのファックス、一度に、何枚だったら受信できると思いますか」
「十枚くらいなら、今まで受けたことがありますけど、インクも足りないかもしれないし……」
という私の不安な言葉も聞こえないかのように、
「では、今から十枚ずつ送りますから、紙は十分入れておいてくださいね」
電話を切るや否や、ファックスが送られ始めた。確実に10枚ずつ5回、そして残りの2枚が送られてきた。心配した紙詰まりもインク切れもなかったが、書類を見ながら、
「ああ、紙もインクももったいない!」
遺書も思い通りにでき、それから一ヶ月ほどして、弁護士事務所から請求書が届いた。遺書制作費、550ドル(約66000円)、これは相場であり、予想していた額だった。しかし、その他にファックス代70ドル(約8400円)と書いてある。
「この『ファックス代70ドル』って何?」
「知らないよ。まさかこの前送ってきたファックス代じゃないだろう。しかし、それしか考えられないなあ。」
と夫も驚く。
「まさか……。一枚の送料を1ドル35セント(約160円)も請求してくるなんて信じられない。それにこの街の市内通話料は、基本料金だけ払えば何時間かけようと無料じゃないの。ファックス自体にお金は全くかかっていないはずよ」
あまりの腹立たしさに、夫に八つ当たりすると、
「秘書の仕事代ってことかな。書類を揃えてファックスを送った・・・・・・」
「冗談でしょう!いくら弁護士の会社だからって、そんな仕事になぜ70ドルも請求できるの!」
私の怒りは頂点に達していた。その横で夫は穏やかに言う。
「アメリカというのは、そのような国なんだよ。残念ながら……。有名なバスケットボール選手たちのことを考えてごらん。僕が大学教授として一生懸命働く一年分の給料を、彼等は試合に10分か20分ほど出れば稼げるんだよ。ばかばかしいと思うけれどこれが現実なんだ」
夫は続けた。
「しかし、僕たちは、弁護士は雇ったけどその秘書までは雇っていないな。秘書というのは、自分の上司のために仕事するのであって、依頼人や顧客の為に働くのではないはずだ」
「そんなに理屈が分かっているなら、この70ドルどうするつもりなのよ」
「払わなくてはならないだろう」
と夫はいうが、私は納得いかない。
「なんで払わなきゃならないの! 私、あの秘書と話したとき、あなたが取りにいきましょうかと聞いたし、そうでなければ、私が今から行くからってはっきり言ったのよ。それなのに、あの秘書、ファックスで送るって言い張ったのは、後で料金を請求するつもりだったのね。70ドルもかかるってわかったら絶対ファックスで送らせはしなかったもの。ひどーい!」
夫は穏やかに続ける。
「まあ、コピー代だとしても高すぎるね。でもあの秘書も、悪気があったわけではないと思うよ。ファックスの送料代は、会社の規定で、何枚送っても70ドルって決まっているのかもしれない。70ドルを、一日中働いても稼ぐことができない人がたくさんいるという社会の現状を、今のアメリカ弁護士で理解できる人は少ないと思う。有能な弁護士になると、一分間で五十ドル、百ドル請求するらしいからね。言っておくけれど一分間だよ。一時間じゃないよ。彼等に普通の金銭感覚を期待してはいけないんだよ」
と言う。
「何にも期待はしていないわよ!でも、こんなアメリカの法曹界の非常識には、一矢を報わなければいけないのよ。私たちはお金のない側の人間よ。私は、戦うわよ。そして、納得する理由がないかぎり、絶対70ドルは払わないからね!」
私の怒号を尻目に、
「70ドルの一矢か……」
と言って、夫は口をつぐんだ。
私は、手紙を書くことにした。と言っても、英語が母国語の夫に書いてもらうために、私が下書きをするのである。
『ファックス代の詳細が明記してないこと。秘書と私の電話での会話内容。ファックス代が70ドルもかかることを知らせないまま送ったこと。規定以外にかかる料金に関しては、事前に顧客に説明し、了解を得て仕事がなされるべきこと。この理由に納得したとき、代金は追って送付する。何時でも話し合いに応じる。これについて返答をいただきたい旨』
このようなことを日本語で書き、大学時代、将来弁護士になろうかと考えたことのある夫に英語で書いてもらった。
そして、遺書作成にかかった費用の小切手を同封し、お礼の言葉を添えて送った。
この件について、この弁護士と争いなるようなことになった場合、相手がたとえ有能な弁護士であったとしても、私には勝つ自信があった。
弁護士事務所からは、電話も手紙もこなかった。
私は、弁護士から請求されたファックス代70ドルを踏みたおしたのだった。
私の費やした時間とエネルギーと精神的代償にしては、70ドルは安かった。
しかし、かの弁護士も言っているだろう。
「そんなファックス代のために話し合うなんて、時間の無駄よ。私が10分も働けば、70ドルくらいすぐに稼げるわ」と……。
*他のエッセイとの関係上、1ドルは120円で換算しています。






















