入門翻訳勝ち抜き道場
入門翻訳勝ち抜き道場
12月22日号
« 目次へ

Did you know that?

田中寿美
[ profile ]

16.遺書

遺書とは、日本語で「遺(のこ)す書」と書くが、英語では、ウィル「will」と言い、意志とか決意という意味が含まっている。これだけでも、二国民の遺書に対する考え方に違いがあると思う。

1999年12月、夫と私は遺書を書いた。作ったというほうが正確かもれない。アメリカの正式な遺書作成は、弁護士に依頼し、準備された書類の内容にしたがって項目ごとに署名し、追加事項があれば書き込んでいく。書類の枚数は、弁護士事務所や遺書の目的によって違うが、私たちの場合、五十枚ほどの書類があった。

四十歳代の夫婦が遺書を書くことは、日本では珍しいと思う。しかし、アメリカでは、年齢に関係なく、資産のあるなしにかかわらず、個人、あるいは夫婦が遺書を作る。私の友人の中にも遺書を作った人は、何人かいる。しかし、私にとっても、四十歳代にして遺書を書くのにはかなり勇気がいった。できれば考えることさえ避けたい「死」というものを、具体的に仮想しなければならないからだ。
「遺書を書いたらすぐ死んだ」

なんてことだってありうる。なんだか、自分たちにもそれが起きるかもしれないと思うと怖かった。

遺書を作ったのには、いくつかの理由があった。第一に、私たち夫婦は、夫がアメリカ人で、妻の私は日本国籍を持ち、アメリカのGreen Card(永住権)保持者である。普通の夫婦と比べ、状況が少し複雑だということ。第二に、夫の家族も私の家族もこの近くに住んでおらず、もし私たち夫婦が死んだ場合、遺された子どもたちがどのように処遇されるかを案じていた。アメリカでは、親の遺書がない場合、18歳以下の子どもたちは、代理親権が決まるまで、州政府管轄の指示に従い保護されると聞いていた。これは子どもを巡っての親族間での争いを避けるためであるらしい。それに加え、その年の暮れ、私たちは、東海岸に住む夫の家族を訪れクリスマスを過ごし、ワシントンDCで、2000年の元旦を迎えることにしていた。

当時、ミレニアム(Millennium)と騒がれ、1999年12月31日の真夜中、Y2K問題と称し、世界中のコンピューターに誤作動が起き大混乱がおきることが懸念された。特に飛行機や管制塔のコンピューターに関しては、人命が関わっているため大きな社会問題となっていた。そんな騒動の中、夫は、旅行会社と相談し、2000年1月2日早朝、ワシントンDCのダラス(Dulles)空港から飛行機に乗り、デンバーで乗り換え、オレゴンの我が家に帰る計画を勝手に立てていた。これを知ったとき、驚いた私は、夫に聞いた。

「1月1日には、コンピューターが正常に作動しない可能性があるって、ニュースで何度も言っているじゃないの。飛行機は危ないから、なるべく四、五日は利用を避けるように言われているのに……。出張の多いアンディの会社だってその間は出張しないようにと警告が出たって聞いたわよ。何でわざわざ二日に帰るような予定を立てたの。四日でも五日でも、もう少し騒ぎが落ち着いてから帰ることだってできるじゃないの。あなた死にたいの?」

「何ですぐ死ぬって決めつけるんだ。世界中の優秀なコンピューター技術者たちが、何ヶ月もかかって、その日のために準備しているんだ。そんな馬鹿なことは起きないよ。僕は、現代の最高のテクノロジーを信じている」
と取り付く島もない。

ここに、アメリカ人夫と日本人妻のテクノロジーに対する考え方が違うことが、顕著に現れる。テクノロジーの開発の最先端を担い、技術発明王国に住むアメリカ人の多くは、飛行機を一番安全な乗り物として信頼し、飛行機は落ちないものと考えている人が多いそうだ。一方、日本人は、飛行機に乗るとき、落ちるかもしれないと思って乗ると聞いたことがある。日本人の私は、
「何度、誰に安全だといわれようが、その日が来てみなければわからない。もし死んだらどうするのよ。この家や車や家具・・・・・・、子供たちだけ生き残ったら・・・・・・」
と、あくまで悪いほうに悪いほうにと物事を考えていく (これは息子に言わせると、私の持って生まれた性格らしい) 。しかし、夫のことだ、特別セールの安い切符を買ったことだろう。今さら変更すればペナルティを取られる。何度頼んでも予定を変更する気のない夫に、
「こうなったら呉越同舟(機?)だ」

言い争うのを止めた。しかし、悲観的発想に取りつかれた私は、どうしても納得がいかない。
「もし、何か起きたら、私たちの生活はどうなるのだろう。そうだ、死んでも悔いのないように、遺書を書こう」

以前から正式な遺書を作ることを夫に持ちかけてはいたが、夫はなかなか行動に移してはくれなかった。
「この機会に絶対作りたい」

私は、夫を駆りたて、すぐに友人が遺書を作ったとき関わった弁護士に連絡した。

その数日後、その弁護士との予約が取れたので、二人揃って弁護士事務所に出かけた。弁護士は、四十歳代の女性だった。お互いに自己紹介したあと、私たちの遺書の目的を伝えた。書類の作成には、五日ほどかかり、次回、私たちが事務所を訪れるとき、弁護士の元で書類一枚一枚に署名することになる旨を伝えられた。

遺書費用の概算は聞いていた。しかし、アメリカの弁護士社会を知る夫は、追加費用がないように細心の注意を払った。弁護士事務所では、電話で何か聞きたいことがある場合、弁護士に繋がった時点から、時給ではなく、分給の費用が請求され始める。挨拶は手短に、「ハロー」だけで、すぐ用件に入ること。質問事項は予めメモに書いておき、無駄口はたたかない。込み入った用件の場合、E―メールで相談する。もちろん、弁護士がメールを読む時間も分給だ。
五日後、52枚の書類がファックスで送られてきた。夫は、弁護士事務所に着いた後、確認のため書類を読めば、その時間も金額を請求されると思い、事前に内容を読み把握しておくことにしたからだった。夫と私は、初めて読む遺書に気が引き締まった。しかし、そんな気持ちもすぐに吹っ飛んだ。読み始めると、
「もし、夫が死んだら……」
「もし、妻が死んだら……」
「もし、二人とも死んだら……」

次から次へと「死んだら」が出てくる。決して気持ちよいものではない。そんな言葉も、次第に機械的言語として読み慣れてきた。私たちは、自分たちの身の回りに関わる人物や、結婚によって築いてきたものの処置について、具体的な答えを出していかなければならなかった。アメリカの弁護士を通した書類の複雑さは計り知れない。私達にとって、子供たちの世話、つまり親権を誰に託すのかが、一番大切なことであり、他はどうでも良いと思っていた。しかし、家の権利、車、家具、貯蓄、宝石、株など、価値の如何にかかわらず明記し、処遇を決めていかなければならない。夫は、大切にしている本、私は、長年かけて集めた古着の着物や帯、日本の本など、それらの譲渡先も決めていった。

50枚の書類は、共通の分、また夫と私の分に別れているのもあるので、私の分は20枚ぐらいである。詳細は明記できないが、書類の最後の方に、本人が植物人間や死を伴う疾病(様々な項目がある:1.Close to death, 2. Permanently Unconscious, 3. Advanced Progressive illness, 4. Extraordinary Suffering, 5. General Instruction, 6. Additional Condition or Instruction, 7. Other Documents )になった場合、どのような処置処遇を望むか。選択肢の中から選んでいかなければならない項があった。これには心が揺らいだ。事故で死んでしまったのなら仕方がない。しかし、身体が生きていて、脳死などと診断された、あるいは疾病の悲惨な状況を考え、自分で自分の生死を決断しなければならないことは、容易ではない。家族は、望みを捨てずに延命処置を依頼するのか。アメリカの高度な医療技術に賭けてみるか。しかし、医療費が高いので破産もしかねない。我が命、どれほどの重みがあるのだろうか。遺書を巡って考えさせられることは多かった。

さて、遺書の中には、弁護士がこの遺書を必要とした場合、つまり私たちが死んだ場合、公正な立場でことが遂行されるよう立ち会うことのできる人物を、依頼人側から二人出さなければならないとあった。新聞記者をしているアメリカ人の友人と義弟に頼んだ。

後日私たちは、弁護士事務所で、書類を確認しながら一枚一枚に署名をしていった。事務所側からは、担当弁護士ともう一人の人物が立ち合い人としていた。二人が私たちの書類署名を見守った。何事も間違いがないように……。

これが、送られてきた私たち夫婦の遺書のコピーである。左側写真の右上に、朱字「CLIENT COPY」のスタンプが押してある。原書は弁護士事務所に保管されているが、署名をした時以外には、どのようになっているのか見たことはない。これと同じコピー用紙か、あるいはちょっと重みのある表紙がついているかもしれない。実印のないこの国では、どのような形式、用紙にしても、一番大切な部分は、各内容に基づいて記された直筆の署名(signature)である。

遺書は、その十日後にできあがり、そのコピーが私たちの手元に送られてきたのは、東海岸に発つ二日前だった。代金は550ドルだった。原書は事務所に保管されている。

私は、やっと安堵した。遺書も意思も残したような気がした。

そして、2000年1月2日に、私達は無事に家に帰った。